8.地雷原を抜けて・・・・・ ~ショマリ平原~
2002.07.08●アフガニスタン
早朝、首都カブールをあとにした私たちは、山岳地帯を目指しました。
次なる目的地バーミヤンへ行くには、戦争中は最大の激戦地であった(近くに軍事要所であったバグラム空軍基地があるため)ショマリ平原を通らなければいけません。
その道中には、多くの地雷が埋められており、走行はかなり危険だということを聞いてはいました。しかし、背筋の凍る思いとはまさにこのことでした・・・・・。
道の両側には旧ソ連軍の戦車の残骸が放置されたままで、初めて見るその光景に私は呆然としていました。すると、なにやらごろごろと置かれたたくさんの赤い石が見え始めました。それは走行している一本道のすぐ両側に延々と続いているのでした。
「この両側の赤い石は何ですか?」
アフガニスタン人のドライバーにそう聞きました。
「ああ、ずっと地雷原さ。赤い石から向こうは多くの地雷が埋まっているよ。地雷の標識みたいなもんだよ」
あわてて周囲を見渡すと、一本道の前も後ろも赤い石に囲まれていました。まわりはすべて地雷原だったのです。
頭の中がパニック状態になりながらも、私は冷静に状況を考えてみようとしました。(対向車がやっとのことで通れるこの狭い一本道で、たとえば道の真ん中に落下物などが落ちているからと、この赤い石を越えて少しだけ迂回したらどうなるのだろう・・・・・?)
私はおそるおそる「車の事故などはないんですか?」聞いてみました。
彼は、「そんなことは日常茶飯事で、ほら、あれもこの間ハンドルをきりすぎて地雷を踏んでしまった小型バスさ。子供を含めて家族8人乗っていたけれど、全員死んでしまったよ」
そう言って彼が指さした場所には、バスという形もわからなくなった黒こげの車らしき残骸と大きな穴があったのでした。血の気がひきました・・・・・。
ここに埋められていたのは対戦車用の地雷でした。
一言で地雷といっても様々な種類があります。地雷調査が行われているところでは、置かれている赤く塗った石の大きさで、どんな地雷が埋まっているかを知らせています。石が大きければ大きいほど、殺傷能力が高い地雷が埋まっているということなのです。けれど、まだ撤去までは進んでいないところが数多くあるのが現実です。すでに撤去した場合には、標識の石は白く塗られています。
カブールからバーミヤンまでは車でおよそ13時間。
いくら体力のある私でも、舗装されていない凸凹道を13時間も行くのは体にこたえました。後部座席でシートベルトをしていても揺れが激しく、天井に頭をぶつけてしまうのです。思わず、車内のグリップを握る手に力が入りました。
気温40度以上。しかし、車にクーラーはありません。容赦ない砂塵に顔が真っ黒になり、目や鼻もやられ、息苦しくなるので、窓を開けることも不可能でした。
私はそのうち、偏頭痛に悩まされ始めました。
途中、ボーゲアフガニスタンという村で昼食休憩をとりましたが、暑さと揺れ、そして何よりも地雷原の中を走っているという極度の緊張から、食欲もわきませんでした。
スタッフたちは水を沸かし、日本から持ってきていたカップ麺を食べていました。カブールから合流したS.C.Jスタッフは現地の食事に慣れているため、地元の人の焼いてくれた小麦粉だけで作ったナンを御馳走になっていました。
「日が暮れるまでにバーミヤンに着かなければいけない」とスタッフから聞いていましたので(そのときは私はその理由を知りませんでした)、私たちは先を急ぎました。
途中、アフガニスタンで収穫される農作物の中で唯一、干ばつに強いといわれているブドウ畑が広がっているのが見えました。何人かの女性が畑仕事をしていました。
(もちろん、ここは地雷原ではないんだろう・・・・・)
そう思っていた私は、畑に向かう道路の端に赤く塗られた石が置いてあるのを見て、とっさに「なんで、そこにいるの!?」と大声をあげてしまったのです。そして車を止め、「そこには地雷があるんでしょう!? どうしてそこにいるのですか?」と彼女たちに向かって叫んだのです。すると、彼女たちは、「私たちはこの土地でしか暮らしていけないし、地雷のことを気にしていたら生活できないのよ。それにこのあたりの地雷はもう撤去されたと噂で聞いたし・・・・・」と淡々と答えたのでした。
アフガニスタンの国土では、どこの地雷が撤去されたか、まだ埋められているかは誰も明確には把握していないといいます。かろうじてその標識として赤い石や白い石が置かれているだけで、地方のほうではまだ調査も進んでおらず、どれくらいの地雷が埋まっているか想像もつかないのが現状です。赤い石が置いてないからといって安全とは限らないのです。
標識といっても、それは石ですから、子供が遊んで場所を変えてしまったり、強風などで吹き飛ばされてなくなってしまったりすることも少なくありません。命に関わることなのに、本当に頼りない標識です。ここからここまでは危険でここからは安全地帯であると、明確に杭を打って、丈夫な柵など作れないものでしょうか・・・・・。
人々が毎日行き来する生活歩道にしても同様です。白い石で囲まれた幅わずか2mの歩道を、子供たちが水の入ったバケツを持って歩いているのです。
私は子供の頃、野原や公園を駈けまわり、生命の危険を感じることなくのびのびと生きてきました。そんなありふれた当たり前のことが、とても特別で貴重なことに思えました。
ここでは自由に駈けまわることすらできないのです、この2m足らずの歩道を越えては・・・・・。
危険といつも隣り合わせに生きているアフガニスタンの人々の日常が、そこにあったのでした。
ショマリ平原を抜けていく途中で信じられない現実を耳にしました。
「ペンやおもちゃやぬいぐるみ、チョコレートなどの子供が欲しがる物を、地雷を埋めた上に置いて敵は去っていった」と。子供たちが大地に見つけたプレゼントに抱きついた瞬間、地雷の餌食になるのだと。
「なんてことを・・・・・」
心の底から怒りがこみ上げてきました。おもちゃに見せかけた爆弾を手にとって身体を失うのは子供たち。なぜ子供たちを傷つけなければいけないの?
人間はそのような恐ろしい兵器を作り、使うことができる。そのことがたまらなく恐ろしく思われました。
途中、S.C.Jのスタッフが乗る先導車が突然止まりました。私たちも車を止め、何事かと走り寄りました。
「不発弾があります!!」
見ると、道路の真ん中に、生まれて初めて見る爆弾が不気味な銀色に光っていました。私は目を疑いました。
スタッフ一同、目の前の状況がよく飲み込めず、呆然としてそこに立ち尽くしました。
その沈黙を破ったのはニルファでした。
「日本に無事に帰れるのかな・・・・・」
そう言って彼女は泣き出したのです。私も泣きたくなるくらい恐ろしかったのですが、「大丈夫よ! 帰れる。大丈夫。ニルファ」と彼女の肩を抱きました。そうすることで自分自身をも落ち着かせていたのです。
そこへ、もっと信じられないことが起こったのです。前車のアフガニスタン人ドライバーが、その爆弾の近くに行き、覗き込んだかと思うと、突然持ち上げ、横の荒地(そこも地雷原だった!)に放り投げたのでした。
「あ!!」
私の中で時間が止まりました――その不発弾が地面に落ちるまでの一瞬がどれだけ長く感じられたことか。実際にはほんの一瞬なのに、それはまるでスローモーションのようでした。
その間、私は「あれが爆発したら死ぬかもしれない・・・・・」と、おおげさにではなく思ったのです。「あれは爆弾ではなかったのだ。だから彼は投げたのだ」と私はその間、自分に言い聞かそうとしました。
日本を立つ前、私はスタッフと一緒に地雷や不発弾の危険性を勉強しました。「もし不発弾を発見しても決して触れたり不用意に近づかないでください。いつ爆発するかわからないですから」と言われ続けていた私は凍りつきました。
幸い、爆発しなかったからこそ、今こうして私はここにいるのですが、そのドライバーの浅はかな行動には憤りを感じました。
「なんて事するの!」
彼を問い詰めると、「どうせ、不発弾だろ。爆発しないよ!」と笑いながら答えました。専門家ではないのに、どうしてそのようなことが言えるのでしょう。こういう大人がいるから、子供たちが真似をして被害にあってしまうのだと痛感したのでした。
戦乱中ずっと危険にさらされていたアフガニスタンの人々にとっては、こんなことは日常茶飯事で慣れっこになっているのでしょう。でも、その“慣れ”こそが命を落とす原因になりかねないはずです。しかしこれこそが、戦場で生きてきた人間というものなのでしょうか。あらためて恐怖を覚えたのでした。
この旅で怪我人を出したら、それは言い出した私の責任だ・・・・・。そんな思いにとらわれながら、私は再び車に乗り込みました。
出くわした不発弾はその一つだけではありませんでした。
今度のは最初の3倍ほどある大きなものでした。またしても道路の真ん中。誰かがその前に石を積み、危険を知らせていましたが、気づかずに車で踏んでしまったら・・・・・と思うとぞっとしました。
「伝えなければ・・・・・」
恐る恐る不発弾に近づきました。生まれて初めて間近で見る、人を傷つけることを目的したこの鉄の塊(もし爆発すれば数十メートル四方が吹き飛ぶ)に私はカメラを向け、慎重にシャッターを押しました。まるで不用意に動くと爆発するかのように・・・・・。先を急ぐため、車を出発させた私たち。
その途中、放置された戦車を遊び道具としていた少年たち、戦車の上に座って休んでいる幼い少女たちがいました。彼らはそれが何なのか認識していたのでしょうか・・・・・。
やがて周囲の景色が変化し始めました。明らかに周囲には緑が増していました。
大地を潤しているのはバーミヤン川の豊かな水。やがてバーミヤン峡谷の断崖が見えてきました。目ざす村はもうすぐでした。